遠くて近い

朝、自然に目を覚ましたサビノは辺りを見回して暫し戸惑う。

・・・そうだ、昨夜怪我した所を「へにょ」とかいう奴に拾われたんだ。

誰かに拾われるのはこれで二度目だった。

一度目は瀕死の重傷を負っていた所を識という名の闇医者に。

あの時は手に入りかけた死を奪われたことで識に殺意すら覚えたが、今回は命に関わる程の怪我ではなかったから別段苛立ちは感じない。

そういえば出て行こうにも着ていた服の在処が分からないとまだ重い頭で思案する。

その時、へにょがドアを開けて入ってきた。

「おはよう、気分はどう?」

・・・サビノ、と遠慮がちに呟いてはにかむ彼は柔和な雰囲気を醸し出していて、今となってはどうして義兄を間違えたのか理解できない。

「・・・別に。俺の服どこ」

質問を無視したサビノの言葉に、しかしへにょは怒ることもなくむしろ申し訳なさそうな顔をした。

「あ・・・ごめん、洗ったけど、まだ乾いてないんだ。だからもうちょっとゆっくりしていきなよ。そうだ、朝ごはん食べる?」

へにょはこちらを振り返る事も、答えを返す事もない背中に困ったように笑いかけるとそっとドアを閉めた。


自分以外誰もいなくなった事を確認してから、サビノは振り返ってドアを見つめる。

少し優しくされたからといって油断してはいけない。

多分あいつは虐める為に俺を拾ったんだ。

怪我の手当をしたのは、傷のついた身体では虐め甲斐がないからだろう。

長期に渡る迫害はサビノの精神に歪みを生じさせ、汚い堆積物となって愛された記憶を覆い隠し彼の心を頑なにしていた。


「お待たせ。朝ごはん持ってきたよ」

不意に響いた声に跳ねそうになる肩を押さえつけ、あくまで無関心を装う。

へにょはにこにこと害意のない笑みを浮かべながらパンケーキの乗った皿とオレンジジュースの入ったコップを乗せたトレイを机に置いた。

「食べられるだけ食べればいいからね」

そう言ってサビノを見たが、サビノは警戒した目でへにょを見つめるだけで動こうとはしなかった。

暫く待っても緊張を緩めないサビノの様子にへにょは困惑し、それでも相手を安心させるよう笑ってみせた。

「・・・見られてたら食べにくいかな。じゃあ後で取りに来るね」

言い残してへにょが出て行き、また一人きりになった室内でサビノは用心深く食事に近寄ってそれを眺めた。

創外固定が外されたのを機に識の所を逃げ出して数日、まともなものは一切口にしていなかった。

パンケーキをじっと見つめた後、フォークを手に取りほんの僅か口に運ぶ。

そして静かに瞬きすると、淀みなく手を動かして瞬く間に全て食べきってしまっていた。

僅かの後にへにょが入ってきて、空になった食器に口許を綻ばせた。

「全部食べれたの?えらいね」

何気なく呟いて、驚いたように目を丸くしてこちらを見つめるサビノに気付き首を傾げる。

「まだ足りない?もうお腹いっぱい?」

無意識に頭を撫でながら訊ねる。

「・・・おなか、いっぱい」

耳の良いへにょだからこそ聞こえたような小さな小さな声で、鸚鵡返しではあるものの答えが返ってきた事が嬉しくてへにょは更にサビノの頭を撫でた。

戸惑っているサビノの頭から手を離すと食器を持って立ち上がる。

「好きな事してていいからね」

と言い聞かせて部屋を出た。


後片付けを済ませたへにょがリビングのソファで本を読んでいると、そろりそろりとサビノが入って来た。

彼は部屋の隅にちょこんと座ると、影のように黙ってへにょを見つめた。

「そんなとこにいないで、こっちおいで?」

駄目元で声をかけたへにょだったが、サビノは案外すんなりと近寄ってきてソファの端に座った。

へにょが本棚から適当に取り出して手渡した本も拒否する事なく受け取られる。

サビノの態度が変化している事にどこか嬉しさを感じたが、彼は本を受け取りはしたものの表紙を見つめたままでそれを開こうとはしなかった。

「どうしたの?それ、読みたくない?」

別の取ろうか、というへにょの言葉にサビノは首を横に振る。

それなら、どうして。

彼がじっと動かなくなってしまった理由が分からず眉根を寄せて思案する。

そのうちにへにょの思案はある予想に辿り着いた。

「字が・・・読めないの?」

その問いにサビノは僅かに恥じ入るような色を滲ませて頷く。

へにょはサビノの肯定に驚く事も憐憫の情を寄せる様子を見せず、ただ答えを理解した証明としてそっか、と呟いた。

「じゃあ俺が読んであげる。ほら、ここ来て」

へにょが自分の隣を示して手招きすると、サビノは躊躇う素振りを見せつつ身体が触れない限界の距離まで移動した。

その距離も本を読み進めるに従ってじわじわと縮まり、いつしかぴったりと寄り添って話に聴き入っていた。

へにょは話を読み聞かせながらちらりとサビノの様子を窺う。

本に夢中で自分の視線に気付いていない様子のサビノを見て、そういえば年はいくつなのだろうと思ったがすぐにそんな事はどうでもいいのだと考えた。

はい終わり、と本を閉じたへにょがサビノを見遣ると彼は名残惜しそうに身体を離した。

「・・・もっと読みたいの?」

その表情を物足りないと捉えたへにょが優しく訊ねたが、サビノは違う、と呟いた。

そして徐に不思議そうにしているへにょの膝の上に頭を乗せるとすぐに寝息を立て始めた。

へにょはぱちぱちと目を瞬かせて、すっかり寝入っているサビノの頭を撫でる。

もっともっととねだるように喉を鳴らされて手を止める事も出来ず、緩慢な動作で撫で続けながらこのサビノという少年に考えを巡らせる。家族は心配していないのだろうか。

どこに住んでいるのだろうか。

腹の傷は何処で何をしていて負ったものなのだろうか。

いずれの答えも得ることは出来ないまま、起きたら聞けばいいやという結論に落ち着いた。

そして膝を動かさないように身体を傾けて傍らの本棚から何となく猫の飼育書を取り出し読み始めた。


「マタタビ・・・ってどこに行けばあるんだろ」

一人ごちながら猫の喜ぶもの、好きなものをメモしていると、サビノが小さく声を洩らして目を覚ました。

「もう起きるの?」

本を閉じながらへにょが問うと、サビノは目を擦りながら頷いた。

へにょはまだ寝惚けているのかぼんやりと座り込んでいるサビノに先程の疑問の答えを得ようと口を開いた。

「ねえ、サビノ・・・」

そこでへにょは言葉を切る。

もしも聞かれたくなかったらどうしようという不安に押され、結局疑問は疑問のままで心の中に留めておく事にした。

「・・・?」

続きを促すように見つめるサビノの頭に手を乗せて何でもないよと笑った。


それから数日。

すっかりへにょに懐いたサビノはどこへ行くにも彼の後について回っていた。

へにょにはその様子がおかしくてつい指摘しそうになってしまうが、すんでの所で思い留まる。

きっと強がりなサビノは拗ねてしまうだろうから。

既にそれが自然になっていた二人の生活は、唐突に終わりを迎える。

「サビノもうお腹いっぱいなの?」

「うん、おいしかった」

「そう、よかった」

へにょの作った朝食を欠片も残さず平らげたサビノが、満足そうに微笑した。

「毎日ごはんくれてありがとう」

食器を片付けるへにょに纏わりつきながら感謝の意を述べるサビノにへにょは首を傾げる。

「3日に1回くらいしか食べられないし、独りぼっちだし・・・俺、帰りたくない」

「・・・ずっとここにいればいいよ」

俯いたサビノの頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに耳を震わせた。


片付けを再開しようとしたその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

代わりに出てくると行ってサビノが駆けていったので、今のうちに食器を洗ってしまおうと思ったのだが、

「やっ・・・離せ!」

サビノの悲鳴に似た声に慌てて様子を見に行く。

へにょの目に入ったのは、白衣を着た青年と、その青年に腕を掴まれているサビノだった。

「あ、君がこの家の人?」

へにょに気付いた青年が冷たい程に整った顔に軽薄な笑みを浮かべて訊ねる。

事情の分からないへにょは躊躇いがちに頷いた。

「あ、僕は識。常識の識ね。それはともかく、サビノがお世話になったみたいだね」

「いえ・・・あの、識・・・さんはサビノとどういう関係なんですか・・・?」

識と名乗った青年は知らなかったの?と言いたげな表情を作って見せると、自分の手を振り解こうとしているサビノを強引に引き寄せた。

「んー・・・僕はサビノのご主人様みたいなものかな?」

「ちがっ・・・んん」

識は否定しようとしたサビノの口を片手で塞ぐと、へにょに人当たりの良い笑顔を向けた。

「冗談。僕医者だから、何かあった時はタダで診てあげる。サビノがお世話になったお礼ね」

じゃあね、と身体を反転させかけた識の腕の中から脱け出したサビノがへにょの袖にしがみついた。

へにょは震える声で帰りたくないと訴えるサビノの頭を撫でながらおずおずと識に問いかける。

「サビノも嫌がってますし・・・俺は構いませんから、ここにいさせてあげて下さい」

「残念だけどそれは無理。別に意地悪で言ってるんじゃなくて、サビノはまだ怪我の治療が終わってないから」

「・・・そう、ですか」

へにょはサビノの頭を撫でていた手を止め、膝を屈めて視線を合わせた。

不安そうに見つめるサビノを緩く抱きしめるてそっと言い聞かせる。

「身体を大事にするのが一番だから、まず治して?それからまたおいで。いつでも待ってるから」

「・・・うん」

サビノは微かに頷くとそっとへにょから離れた。

識に連れられて帰っていくサビノが何度も振り返る度、へにょは微笑って手を振った。


今度会う時こそ、全てを知って。

そして、